近年、「子どもとの会話はゲームを通してしか成立しない」と感じている父親が増えている背景には、父親個人の努力不足というよりも、社会構造・男性の育ち・家庭内役割の変化が複雑に重なっています。
臨床の現場でこの訴えを聞くたびに、そこには父親なりの苦悩と孤立があると感じます。
まず、現代の父親は、子どもが小さい頃から日常的な関わりを十分に積めていないケースが少なくありません。
長時間労働や通勤、仕事中心の生活の中で、子どもが乳幼児期に示す感情の揺れや言葉にならない要求に触れる機会が限られてきました。
その結果、父親は「言葉で気持ちをやり取りする関係」を育てる前に、子どもが思春期や学童期に入ってしまい、どう話しかければいいのか分からない状態に置かれます。
一方で、ゲームはその溝を一時的に埋めてくれる非常に分かりやすい媒介になります。
ルールが明確で、勝ち負けや役割がはっきりしており、感情を深く言語化しなくても同じ画面を共有できます。
父親にとってゲームは、「どう話せばいいか分からない」という不安を回避しながら、子どもと同じ空間にいられる数少ない方法になっているのです。
これは逃げではなく、父親なりの必死な接点探しだと言えます。
また、多くの男性は、成長過程で「感情を言葉にする訓練」を十分に受けてきていません。
悲しい、悔しい、不安といった気持ちを語るよりも、我慢する、成果で示す、黙って耐えることを求められてきた世代です。
そのため、子どもが感情的な話題や学校での人間関係、内面の悩みを持ちかけてきたとき、父親は強い無力感を覚えます。
何を言えばいいのか分からず、下手に話して関係を壊すくらいなら、ゲームという「安全な共通言語」に退避してしまうのです。
さらに、子ども側の変化もこの現象を加速させています。
現代の子どもは、学校や社会の中で非常に多くのストレスを抱えています。
その中で、言葉で説明するよりも、ゲームを通じた非言語的なつながりの方が楽だと感じる子も少なくありません。
父親がゲームで関わってくれるときだけ心を開く、という関係性が固定化すると、「ゲーム以外では話せない父親と子ども」という構図が出来上がってしまいます。
臨床的に見ると、ここで起きている本質的な問題は、ゲームそのものではありません。
問題は、父親が「父親としての関わり方」を学ぶ機会を社会から奪われてきたこと、そして家庭の中で感情的な対話の担い手を一人で背負わされてきた母親との役割分断が、修正されないまま続いてきたことです。
ゲームはその歪みを一時的に隠してくれる装置に過ぎません。
そしてもう一つ重要なのは、父親自身が「子どもに拒絶されること」を強く恐れている点です。
子どもに嫌われたくない、距離を取られたくないという気持ちがあるからこそ、確実に受け入れてもらえるゲームという手段にしがみついてしまいます。
これは愛情の欠如ではなく、関係を失うことへの恐怖の表れです。
専門家として伝えたいのは、ゲームでしかつながれないと感じている父親は、決して冷たい父親でも、無関心な父親でもないということです。
むしろ、どう関わればいいか分からないまま、それでもつながろうとしている父親なのです。
ただし、ゲームだけに関係性を委ね続けると、子どもが困難に直面したときに、感情を言葉で受け止める回路が育たないままになってしまいます。
必要なのは、「ゲームをやめさせること」ではなく、ゲーム以外の関わり方を父親自身が学び直せる機会です。
短い会話で構いません。
正解を言おうとしなくていい、助言しなくていい、ただ聞く、共感する、分からないと正直に言う。
そうした経験を少しずつ積み重ねることで、ゲームは唯一の接点ではなく、数ある関わり方の一つに戻っていきます。
この問題は、個々の家庭の努力だけで解決できるものではありません。
父親が安心して不器用でいられる社会、感情的な関わりを学び直せる場を用意することが、これからの子育て支援において不可欠だと、強く感じています。
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発達障害ラボ
車 重徳