464【発達障害】障害があっても子どもは天使と言う母と心中を試みた母とのギャップ

 

この問いに含まれている苦しさは、決して誇張でも特異なものでもありません。

 

臨床の現場で長く親御さんと向き合っていると、「この子と一緒に消えてしまいたい」と一度も思ったことがない、と言い切れる方のほうが少ないのではないかと感じるほどです。

 

そこまでの思いに追い込まれてしまう背景には、理想として語られる障害児像と、現実の子育てとの間にある、あまりにも大きな断絶があります。

 

 

 

 

まず、「障害があっても子どもは天使」という言葉は、本来、差別や排除に対抗するために生まれた善意のメッセージです。

 

しかしこの言葉は、現実の養育を担う親にとっては、非常に残酷な側面を持ちます。

 

重い発達障害がある子どもの育ちは、可愛さや癒しだけでは語れません。

 

激しい癇癪、睡眠障害、自傷や他害、言葉が通じない孤独、外出できない生活、将来への見通しのなさ。

 

そうした日々の積み重ねは、親の心身を確実に削っていきます。

 

その現実の中で「天使」という言葉を突きつけられると、親は「自分はこの子を可愛いと思えない」「愛しきれない自分は異常なのではないか」と、二重三重に追い詰められていきます。

 

 

 

 

ここに生じている最大のギャップは、愛情と苦しさが同時に存在するという事実が、社会的に許されていないことです。

 

多くの親は、我が子を大切に思っています。

 

同時に、もう限界だ、逃げたい、終わらせたいという思いも抱えています。

 

 

この二つは矛盾ではありません。

 

しかし「親は無償の愛で耐えるもの」「障害児の親は強く美しくあるべき」という無言の期待があると、苦しさを言葉にした瞬間に「冷たい親」「愛が足りない」と裁かれる恐怖が生まれます。

 

その結果、親は助けを求める前に沈黙を選び、孤立が深まっていきます。

 

 

 

 

また、重度の発達障害児の子育ては、終わりの見えないマラソンです。

 

一般的な子育てには、「成長すれば楽になる」「いずれ自立する」という希望があります。

 

しかし重度の場合、その見通しが立たない、あるいは明確に否定されることもあります。

 

親は、今の大変さだけでなく、「この先何十年も続くかもしれない介護」「自分が倒れた後、この子はどうなるのか」という恐怖を、一人で抱え続けます。心中という考えが浮かぶとき、それは死を望んでいるというより、終わりのない苦しみから解放されたいという

 

切実な願いであることがほとんどです。

 

 

 

 

さらに、支援の不足や途切れも、このギャップを拡大させます。

 

制度上は支援があるように見えても、実際には待機、書類、制限、理解のなさ、責任の押し付け合いに疲弊し、「誰も本当には助けてくれない」という感覚が親に蓄積していきます。

 

孤独の中で、24時間365日ケアを続ける状態が続けば、人の心が追い詰められるのは、むしろ自然な反応です。

 

 

 

 

臨床家としてはっきりお伝えしたいのは、こうした思いを抱く親御さんは、弱いのでも、愛がないのでも、間違っているのでもありません。それほど過酷な状況に置かれているということです。

 

「天使」という言葉が嘘に感じられるのは、親の心が歪んでいるからではなく、現実がその言葉を受け止めきれないほど重いからです。

 

 

 

 

本当に必要なのは、「きれいな言葉」ではありません。

 

親が「もう無理だ」「助けてほしい」「こんなことを思ってしまう自分が怖い」と言葉にしても、否定されず、責められず、現実的な支援につながる社会です。

 

苦しさを語る自由がないところでは、希望も育ちません。

 

 

 

 

障害児の子育てに生じるこの深いギャップは、親の問題ではなく、親を一人で背負わせてきた社会の問題です。

 

その視点を持つことこそが、心中という最悪の選択を防ぐための、最も重要な第一歩だと私は考えています。

 

 

 

 

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発達障害ラボ

車 重徳

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