この問いに含まれている苦しさは、決して誇張でも特異なものでもありません。
臨床の現場で長く親御さんと向き合っていると、「この子と一緒に消えてしまいたい」と一度も思ったことがない、と言い切れる方のほうが少ないのではないかと感じるほどです。
そこまでの思いに追い込まれてしまう背景には、理想として語られる障害児像と、現実の子育てとの間にある、あまりにも大きな断絶があります。
まず、「障害があっても子どもは天使」という言葉は、本来、差別や排除に対抗するために生まれた善意のメッセージです。
しかしこの言葉は、現実の養育を担う親にとっては、非常に残酷な側面を持ちます。
重い発達障害がある子どもの育ちは、可愛さや癒しだけでは語れません。
激しい癇癪、睡眠障害、自傷や他害、言葉が通じない孤独、外出できない生活、将来への見通しのなさ。
そうした日々の積み重ねは、親の心身を確実に削っていきます。
その現実の中で「天使」という言葉を突きつけられると、親は「自分はこの子を可愛いと思えない」「愛しきれない自分は異常なのではないか」と、二重三重に追い詰められていきます。
ここに生じている最大のギャップは、愛情と苦しさが同時に存在するという事実が、社会的に許されていないことです。
多くの親は、我が子を大切に思っています。
同時に、もう限界だ、逃げたい、終わらせたいという思いも抱えています。
この二つは矛盾ではありません。
しかし「親は無償の愛で耐えるもの」「障害児の親は強く美しくあるべき」という無言の期待があると、苦しさを言葉にした瞬間に「冷たい親」「愛が足りない」と裁かれる恐怖が生まれます。
その結果、親は助けを求める前に沈黙を選び、孤立が深まっていきます。
また、重度の発達障害児の子育ては、終わりの見えないマラソンです。
一般的な子育てには、「成長すれば楽になる」「いずれ自立する」という希望があります。
しかし重度の場合、その見通しが立たない、あるいは明確に否定されることもあります。
親は、今の大変さだけでなく、「この先何十年も続くかもしれない介護」「自分が倒れた後、この子はどうなるのか」という恐怖を、一人で抱え続けます。心中という考えが浮かぶとき、それは死を望んでいるというより、終わりのない苦しみから解放されたいという
切実な願いであることがほとんどです。
さらに、支援の不足や途切れも、このギャップを拡大させます。
制度上は支援があるように見えても、実際には待機、書類、制限、理解のなさ、責任の押し付け合いに疲弊し、「誰も本当には助けてくれない」という感覚が親に蓄積していきます。
孤独の中で、24時間365日ケアを続ける状態が続けば、人の心が追い詰められるのは、むしろ自然な反応です。
臨床家としてはっきりお伝えしたいのは、こうした思いを抱く親御さんは、弱いのでも、愛がないのでも、間違っているのでもありません。それほど過酷な状況に置かれているということです。
「天使」という言葉が嘘に感じられるのは、親の心が歪んでいるからではなく、現実がその言葉を受け止めきれないほど重いからです。
本当に必要なのは、「きれいな言葉」ではありません。
親が「もう無理だ」「助けてほしい」「こんなことを思ってしまう自分が怖い」と言葉にしても、否定されず、責められず、現実的な支援につながる社会です。
苦しさを語る自由がないところでは、希望も育ちません。
障害児の子育てに生じるこの深いギャップは、親の問題ではなく、親を一人で背負わせてきた社会の問題です。
その視点を持つことこそが、心中という最悪の選択を防ぐための、最も重要な第一歩だと私は考えています。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
発達障害ラボ
車 重徳