臨床心理の専門家として、いじめの現場で被害者が置き去りにされ、加害者が守られているように見える不条理な構図について、その背後にある学校組織の病理と教育現場特有の論理を紐解いていきましょう。
被害を受けたお子様やご家族にとって、加害者が登校を続け、学校側がその責任を曖昧にする姿は、教育機関への不信感を決定づける「二重の加害」となります。
なぜ、本来守られるべき弱者が軽視され、強者である加害者が温存されるような事態が起きるのか、そこには教育という名の下に正当化された危うい構造が存在します。
まず、教育現場に根強く残る「更生と教育権」という大義名分が挙げられます。
教師の多くは「どんな子どもも見捨ててはいけない」「加害者もまた課題を抱えた被害者である」という教育的理想を持っています。
しかし、この理想が極端に振れると、加害者の「学ぶ権利」や「成長の機会」を優先するあまり、被害者の「安全に過ごす権利」を二の次にしてしまう本末転倒な事態を招きます。
加害者に厳しい処分を下すことを「教育の敗北」と捉える一部の風潮が、結果として加害者を甘やかし、被害者の苦痛を看過する免罪符となってしまっているのです。
次に、学校という組織の「管理責任の回避」という側面が無視できません。
いじめの事実を正式に認め、加害者を厳しく罰したり警察と連携したりすることは、学校側にとっては「自校の指導力不足」を公に認めるリスクを伴います。
特に加害者が学業優秀であったり、親が地域で影響力を持っていたりする場合、組織防衛の本能が働き、事案を「子ども同士のトラブル」や「行き過ぎた遊び」という文脈に矮小化して処理しようとします。
加害者を指導中であるというポーズを取ることで、問題を学校の内部に留め置き、外部からの批判を遮断しようとする閉鎖性が、被害者側からは加害者を守っているように映るのです。
さらに、心理学的な「力関係の追認」も関係しています。
教師も人間であり、無意識のうちに集団を支配する声の大きい加害者や、その背後にいる高圧的な保護者との対立を避けようとする回避行動を取ることがあります。
被害者を守るために加害者と対峙するには多大なエネルギーが必要であり、疲弊した現場では、被害者に「我慢」や「許し」を説く方が、目先の波風を立てずに済むという極めて不適応な判断が下されがちです。
これは、組織が強者に阿ね、弱者を犠牲にするという「社会の縮図」の悪い側面が、学校という密室で再生産されている姿に他なりません。
被害者の精神的苦痛は、事件が終わった後もフラッシュバックや人間不信として長く続きます。
学校が加害者を「守る」ことで得られる平穏は偽物であり、それは被害者の尊厳を削り取った上に成り立つ砂上の楼閣です。
今、必要なのは、学校という枠組みを超えた第三者の介入や法的手段の検討も含め、被害者の安全を最優先に確保することです。
もし、今まさにその渦中で絶望を感じていらっしゃるのであれば、学校側の「教育」という言葉に惑わされず、まずは被害者の心の回復と安全を確保するために、具体的にどのような外部機関を頼るべきか、一緒に整理していきませんか。
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発達障害ラボ
車 重徳